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東京国立博物館 平成館
〒110-8712 東京都台東区上野公園13-9


古代エジプトの美女たちが世界中から東京へ

貴重な名品約 180 件が結集!

クレオパトラとエジプトの王妃展

CLEOPATRA AND THE QUEENS OF EGYPT

 古代エジプト王国といえば、だれもがピラミッドや神殿などの壮麗な建造物を思い浮かべることでしょう。 この約三千年もの長きにわたる王国を支配したのは、ファラオと呼ばれた王たちでした。
  しかし、発掘調査や研究の成果により、ファラオの歴史だけでなく当時の社会や人びとの暮らしぶりにも大きな関心が寄せられるようになってきました。 なかでも、古代エジプトの社会における女性たちと、その役割についての研究の進展には目覚ましいものがあります。
 王を支える女性たちは妻や母としてだけではなく、政治や宗教の側面からも大きな責任を担いました。 ときには女王として君臨する王妃も登場し、さらに神格化された王妃もいます。
 展覧会では、古代エジプトの歴史のなかで大きな役割を果たした女性たちに焦点を当てています。 大ピラミッドを建造したクフ王の母ヘテプヘレス。 夫の死後、王として君臨した女王ハトシェプスト。 王族ではありませんでしたが、王に嫁いだ王妃ティイや、絶世の美女として知られた王妃ネフェルトイティ (ネフェルティティ)。 そして古代エジプト最後の女王となったクレオパトラ (クレオパトラ7世) などはその代表例です。
 本展は、ルーヴル美術館、大英博物館など、世界の名だたる美術館・博物館に、14ヶ国の所蔵先から貴重な名品約180件が一堂に会する展覧会です。

展覧会の見どころ
1. 世界中からエジプトの名品約180件が結集。―ルーヴル美術館、大英博物館、ボストン美術館、ベルリン・エジプト博物館など世界14ヶ国の名だたる美術館、博物館のエジプトコレクションが一堂に集結します。
2. 古代エジプト最後の女王クレオパトラ。―古代エジプト史上、最も著名な女王クレオパトラ(クレオパトラ7世)ゆかりの至宝を紹介し、その実像に迫ります。
3. 主役は王妃と女王。
  ファラオを支え、国を支えた女性たち。―クレオパトラのほか、女王ハトシェプスト、ツタンカーメン祖母ティイ、アマルナ時代を華やかに生きたネフェルトイティ(ネフェルティティ)など現代においても魅力あふれる女性たちを紹介します。


会期:2015 7/11(土) 〜 9/23(水・祝)展覧会は終了しました。
開館時間:午前9時30分〜午後5時※金曜日は午後8時まで、土・日曜、祝・休日は6時まで。
(入館は閉館の30分前まで)

休館日:月曜日※9/21(月・祝)は開館。
会場: 東京国立博物館 平成館 (上野公園)
巡回大阪展: 2015 10/10〜12/27 国立国際美術館 大阪
巡回展は終了しました。



'2015 7/10 報道内覧会の会場内の風景です。 画像をクリックすると大きな画像でご覧いただけます。

「クレオパトラとエジプトの王妃展」東京国立博物館 平成館

・181 《クレオパトラ》 1852〜53年
フランス、マルセイユ美術館蔵

「クレオパトラとエジプトの王妃展」
東京国立博物館 平成館
報道内覧会 '2015 7/10


クレオパトラ

―世界中を魅了する、古代エジプト最後の女王―


「展示構成」―本展覧会 図録 「クレオパトラとエジプトの王妃展」、 PRESS RELEASE より抜粋して掲載しています―

 本展覧会は、古代エジプト史上、最も著名な女王であるクレオパトラ (クレオパトラ 7世) をはじめ、女王として君臨したハトシェプスト、王の寵愛をもとに王朝の絶頂期を支えたティイ、アマルナ時代を代表する王妃ネフェルトイティ (ネフェルティティ) など、当時の政治や宗教に多大な役割を果たした王妃や女王たちをメインテーマにすえ、彼女たちの実像に迫る内容となります。 彼女たちにまつわる像やレリーフ、装身具など約180件は、ルーヴル美術館、大英博物館など、世界14ヵ国の美術館・博物館をはじめ、個人コレクターからの展示品となります。

「本展の構成」
第T章 王 (ファラオ) をとりまく女性たち
第U章 華やかな王宮の日々
第V章 美しき王妃と女神
第W章 権力をもった王妃たち
第X章 最後の女王クレオパトラ


'2015 7/10 報道内覧会「クレオパトラとエジプトの王妃展」の各章の概要と会場内展示風景です。

第T章 王 (ファラオ) をとりまく女性たち

第T章 王 (ファラオ) をとりまく女性たち
 古代エジプトの社会では女性の地位が比較的高く、王妃たちは王の配偶者として政治を支えました。 王(ファラオ)は数多くの妻と側室をもち、後宮(ハーレム)で暮らす女性たちにとっては、王となる王子を産むことがきわめて重要で、「王の母」となることで、大きな力をもつことができました。 アル=ギザの大ピラミッドを造ったクフ王の母ヘテプヘレスの墓には、豪華な家具類が副葬されていました。 中王国時代(前2025〜前1794年頃)になると、多くの王妃のなかから、「偉大なる王の妻」という特別な称号をもつ女性、すなわち正妃が現われます。 後のアメンヘテプ4世(後のアクエンアテン王)の妃ネフェルトイティ、王妃の谷の壮麗な墓で知られるラメセス2世の妃ネフェルトイリが代表的な正妃です。

・2 《王妃ヘテプへレスの肘掛椅子》(複製)
原品:古王国・第4王朝時代 スネフェル王〜クフ王治世(前2614〜前2556年頃)
原品:アル=ギザ、ヘテプヘレス墓出土 カイロ・エジプト博物館所蔵
79.5 x 70.7 x 66.0 木、金、銅、銀、革、ファイアンス、黒檀 アメリカ、ボストン美術館

 王妃ヘテプヘレスの竪抗墓は、1925年2月にアル=ギザのクフ王の大ピラミッドの東側で、ハーヴァード大学とボストン美術館の合同調査により偶然発見された。 納められた家具調度品は、見事に復元され、4600年も前の古代エジプトの木工技術を今に伝えている。


第U章 華やかな王宮の日々

第U章 華やかな王宮の日々
 王宮は、まさに古代エジプトの力と富を象徴するもののひとつでした。 代表的な遺跡にはアメンヘテプ3世が建設したマルカタ王宮址と、アメンヘテプ4世(後のアクエンアテン王)が建設したアマルナ王宮址があります。 マルカタ王宮は広大な面積を誇り、宮殿は庭園や湖、そして葡萄園に囲まれていました。 敷地には神殿や、宮殿で働く者の住む村、また召使や護衛官、パン職人、ビール醸造者、肉屋といった職人たちの居住区もありました。
 王宮ではさまざまな儀式や宴がとりおこなわれます。 ハープやリュート、縦笛などを演奏する楽師や踊り子たちも華やかな日々を彩っていました。 宴ではワインやビールなどの飲み物とともに、ぜいたくな食事がふるまわれました。

・36 《セティ2世》 新王国・第19王朝時代 セティ2世治世(前1199〜前1193年頃) 41.5 花崗岩
イタリア、フィレンツェ・エジプト博物館

 両腕と下半身が欠損した王像である。 長い髪を顔の左右に振り分け、正面に聖蛇ウラエウスのついた鬘を被っている。 背柱には、縦書き1行でセティ2世の即位名と誕生名が刻まれている。


第V章 美しき王妃と女神

第V章 美しき王妃と女神
 王妃の肖像には時を超えた美しさがあります。 王妃たちは、それぞれの時代の理想的な美を具現化した姿で表されてきたからです。 王家の女性たちは襞のある白い亜麻布製の衣装をまとい、金や貴石で作られた豪華な胸装や耳飾、腕輪、指輪などの装身具を身につけて、紅やアイシャドー、マニキュアなどの化粧をしました。 王は正装である腰布や付け髭、頭巾などを身につけ、王冠や玉笏などを持って儀式に出ました。 王は現世に生きる神であり、世界の秩序をつかさどる存在でした。 そして、ファラオと同じように、「王の母」や「偉大なる王の墓」の称号もつ王妃は、神を象徴する装飾を身にまとい、他の人びととは異なる姿をしていました。

・127 《アメン神妻のスフィンクス》 第3中間期・第25王朝時代 タハルカ王治世〜末期王朝・第26王朝時代 プサメティコス1世治世9年(前690〜前656年) テーベ、カルナク神殿出土 46.5 x 25.0 x 82.0 花崗閃緑岩 ドイツ、ベルリン・エジプト博物館

 シェプエンウペト2世のスフィンクスである。 彼女は、第25王朝初代のピイ王の王女で、タハルカ王とシャバカ王の姉妹にあたる人物である。 アメン神の聖水を捧げており、容器の蓋はアメン神の聖獣である牡ヒツジの頭をかたどっている。 シェプエンウペト2世は、タハルカ王の治世から第26王朝プサメティコス1世の治世9年まで、アメン神妻として権力を行使していた。 テーペのカルナク神殿で発見されたものである。


第W章 権力をもった王妃たち

第W章 権力をもった王妃たち
 長い古代エジプト史の中には何百人という王妃がいたはずですが、その生涯についての記録が残っている王妃は多くありません。 そのなかで比較的によく知られているには、新王国時代(前1550〜前1069年頃)における王家の女性の活躍です。
 第18王朝のハトシェプスト女王は完全な王権を掌握した数少ない王妃でした。 ハトシェプスト女王の彫像やレリーフは、付け髭までつけた完璧な王の姿で描かれています。 ディール・アル=バハリに美しい葬祭殿を残しています。 アメンヘテプ3世の王妃ティイは、夫の良き助言者として知られ、国政や祭儀のなかでも傑出した役割を担っていたとされます。 息子アメンヘテプ4世は後にアクエンアテンと改名し、アマルナに王都アケトアテンを建設して、王妃ネフェルトイティとともに太陽神アテンを唯一神とする革新的な宗教改革を断行します。

・137 《神官の監督サテプイフウ》 新王国・第18王朝時代 ハトシェプスト女王治世(前1473〜前1458年頃)
アビュドス、サテプイフウ墓出土 82.5 x 43.5 x 58.0 砂岩 アメリカ、ペンシルヴァニア大学考古学人類学博物館

 神官の監督の称号をもつサテプイフウの大型の方形彫像である。 アビュドスにある彼の墓で発見された。 大きな鬘と顎鬚をつけた姿で、顔の前には組んだ両手が簡略に表現されている。 方形彫像という形式の像は、中王国時代に出現したもので、膝を抱いている姿が胎児の姿勢と似ていることから再生を象徴するという見方もある。本像には横書き13行のヒエログリフの銘文が刻まれており、彫像を四角形に作ることによって、多くの碑文を刻むことを可能としている。


第X章 最後の女王クレオパトラ
第X章 最後の女王クレオパトラ
 古代エジプト最後の王朝であるプトレマイオス朝(前304〜前30)は、マケドニアのアレクサンドロス大王(在位:前336〜前323年頃)の東方遠征にしたがった将軍のひとりであったプトレマイオスが、大王の死後、王を宣して独立したギリシア系の王朝でした。 この王朝の最後の支配者がクレオパトラ女王です。 クレオパトラの名をもつ王妃が歴史上数人いることから、クレオパトラ7世の名でも知られています。 父のプトレマイオス12世の死後、権力の座につこうとしたクレオパトラは弟の支援者のよって一時期国を追放されましたが、ローマの有力者ユリウス・カエサルの後ろ盾を得て、エジプトの女王となりました。 カエサルとの間には息子カエサリオンが誕生しています。

・172 《アクティウムの海戦のレリーフ》 ローマ時代 ユリウス・クラウディウス朝(前27〜後68年)
105.2〜106.0 x 96.0〜106.0 大理石 スペイン、カルドナ公爵コレクション

 前31年9月のアクティウムの海戦によって、アントニウスとクレオパトラ女王の連合艦隊は、オクタウィアヌスの艦隊に敗れた。 オクタウィアヌスは、比較的軽量な350隻の船をアントニウスの重量にある200隻の艦隊に向かって並べた。 クレオパトラ女王は比較的軽く機動力のあるエジプト艦隊をもっていた。 戦闘はアントニウスの撤退により、オクタウィアヌスの勝利に終わり、クレオパトラはアレクサンドリアへと逃れる。 下方には、ぶつかり合うガレー船が描かれている。 右からくる船は、船首に飾られたケンタウロスからアントニウス総司令官が乗る船であることがわかる。 その船と向かい合う船にはオクタウィアヌスが乗っている。


クリーブランド美術館

図録 「クレオパトラとエジプトの王妃展」
クレオパトラとその時代
(王都アレクサンドリア/クレオパトラとその生涯/おわりに――からの抜粋文章です。)
 クリスティアーヌ・ジェグレール (ルーヴル美術館古代エジプト美術部門名誉部長)

 アレクサンドロス大王(在位:前336〜前323年)はエジプトを無血で征服し、ペルシア政権の下に抑圧されていたエジプトの解放者として迎えられた。 ファラオの正統な後継ぎと認められた後、アレクサンドロス大王は現地の行政官にエジプトの統治を任せ、新しい国々へと出発する。 しかし、アレクサンドリアという新しいギリシア都市の礎を築いたのはアレクサンドロス大王である。 そして前323年、大王の死後、その広大な領土は将軍たちによって分割され、エジプトの王座についたのはアレクサンドロス大王とともに戦った遠縁の血縁者プトレマイオス1世ソテル(在位:前304〜前282年)であった。 外国人の征服者と思われるどころか、プトレマイオス1世はエジプトの聖職者として迎え入れられ、ファラオとして認められた。 さらに、神に選ばれた神殿の守護者となった。 それから8世代の後にクレオパトラが登場するのである。 300年の間、プトレマイオス朝の王は、エジプトの経済と行政を発展させた。

 前48年、勝利に満ちたローマの将軍ユリウス・カエサルがアレクサンドリアで出会ったのは魅力的で博識、その上、大胆不敵な18歳の若い娘であった。 ローマの著述家プルタルコス(46頃〜127年頃)の言葉を信じるならば、弟プトレマイオス13世の策略で権力の地位から追放されたクレオパトラは、カエサルを説得して再び王座に戻ろうと企てた。

 「そこでクレオパとは、腹心のなかからシシリーの人アポロドロスひとりだけを伴って小舟に乗りこんで、あたりが暗くなったころ王宮に舟をつけた。 しかも、他に人目を忍ぶ手だてもなかったので、寝具袋にもぐりこんでその身を長くのばし、アポロドロスがその袋を革紐でしばって、戸口からカエサルのもとに運びいれた。 カエサルがこの女性の虜になってしまったのは、蠱惑的な姿であらわれるというクレオパトラのこのまず第一の術策のためであったといわれている。 それに、彼女のその後の魅力的な応接にみごと兜をぬがされてしまい、弟の王と彼女を和解させ、王位を共有するようにさせたということである」

 その後、突然の弟の死によってカエサルはたやすくクレオパトラに王権を与えることができた。 彼女は別の若い弟プトレマイオス14世と形式的に再婚し、カエサルをともない、その権力を見せつけるようにエジプトを航行した。 息子のプトレマイオス15世カエサル(愛称カエサリオン)とともに、クレオパトラはローマの将軍と完璧な愛を築くかに見えた。 ところが、カエサリオンが誕生後まもなくローマに向かい、エジプトの宮廷人とともにローマに滞在していた彼女たちの贅を尽くした生活は、ローマ市民層の批判の的となった。 しかも、独裁政治を批判されたカエサルが、前44年、ローマ歴3月15日に暗殺される。

 クレオパトラはエジプトがローマに併合されるのを防ぐために、さまざまな人物に近づく。 前42年、候補に残った重要人物はただ二人、カエサルの副官であったマルクス・アントニウスと、後の皇帝アウグストゥスと呼ばれることとなるオクタウィアヌスであった。
 クレオパトラの招きで船に乗ったアントニウスはたちまち彼女の虜になった。 しかしカエサルと同じ様に、ローマ本国の政情に対処するため、彼は新しい環境にクレオパトラを残して出発する。 3年後、アントニウスはオクタウィアヌスの姉オクタウィアと結婚するが、さらなる領地を与えるという名目でクレオパトラと再会する。 彼はクレオパトラとともにエジプトを中心とする新しいオリエントを支配することを夢見たのである。

 前31年9月2日のアクティウムの敗戦の後、アントニウスは軍隊を見捨ててクレオパトラの船で逃走するという屈辱的な行為に走る 。 まもなくオクタウィアヌスがアレクサンドリアに凱旋した。
 女王は自分のために作らせてあった見事な王墓に引きこもり、エジプト軍が見捨てたアントニウスの復讐を恐れ、自分の死を告げる手紙を使者に託す。 手紙を受け取り、悲しみに打ちのめされたアントニウスは自ら剣で自害する。 自分が捕われの囚人であることを知っていたクレオパトラは王にふさわしい死を選んだ。 籠に入った毒蛇を秘密のうちに運びこませていた彼女は 「 『ああここにいる』 と言って、咬ませるために腕をまくったという」 とプルタルコスは語る。

 クレオパトラは、古代世界最大の都市のひとつ、エジプト・プトレマイオス朝の首都アレクサンドリアの宮殿で幼少期を過ごした。 アレクサンドリアの市民はギリシア人であったが、そこは地中海世界の文化と古代エジプトの伝統が織りなす文明のるつぼであった。 そして、有名な図書館と博物館があったアレクサンドリアは、当時の知的世界の中心地でもあった。 ナイルの河口に位置するアレクサンドリアは、エジプトの豊かな物資や古代世界の商品の交易拠点であった。


お問合せTel:03-5777-8600 (ハローダイヤル)
展覧会公式サイト:http://egypt2015.jp
主催:
東京国立博物館、NHK、NHKプロモーション、朝日新聞社
後援:外務省
協賛:大日本印刷、トヨタ自動車 協力:日本航空、KLMオランダ航空
制作協力:The Grimaldi Forum Monaco、ファクト・コンセプトゥール社

参考資料:「クレオパトラとエジプトの王妃展」図録、 PRESS RELEASE 他。
※写真撮影など掲載は、主催者の許可を受けて行っております。
※画像の無断転載禁止


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